推拿(すいな)

推拿(すいな)

推拿の歴史

推拿は疾病治療法の中でも最古のものの一つです。今から二千年余り前の春秋戦国時代、按摩療法は医療実戦として広く応用されていました。

当時の民間医、扁鵲(へんじゃく:昔の名医と言われていた)は按摩、針灸を利用して人事不省(意識不明、昏睡状態)になった患者を救っています。

中国最古の医学書「内経」<素問・霊枢>によると、 按摩はリウマチ性関節炎等の痺症、四肢の運動麻痺、顔面神経麻痺、胃痛等を治療、更に「九針(九種の針)」の「円針」「鍉針」などの按摩の道具に関する説明も記されています。この事から、当時は按摩と針灸の関係が比較的密接で、常に組み合わせて使われていたことがわかります。

『素問』異法方宜論には「中央では地面が平たく、湿気があり、天地は万物を産み己した。 その民衆は食事が雑であり、労働もしないので、病にかかった場合は、多くの筋肉のしびれ、気絶、熱の上がり下がりなどの症状が発生する。これらを治療する為には、導引や按躊が必要となる。従って、導引と按躊も中央から発生したものである。」と書かれています。文中の「中央」とは中国中部地区を指し、今日の河南省洛陽付近にあたり、按躊は春秋時代すでに中部地区でその源を発していたと推断されます。

 

最初の按躊専門書である『黄帝岐伯按摩』十巻(すでに散失)も秦漢時代に完成されたものです。このことから、推拿療法は、秦漢以前、既に中国で一般的に応用されていたことがわかります。

魏、晋、隋、唐代に按摩専科が設立され、按摩専門の医師は存在していました。隋代には按摩博士という職務があり、暦代になると、按摩科が設立され、按摩医は更に按摩博士、按摩師、按摩工等の階級に分けられていました。按摩博士は按摩師と按摩工の協力の下、按摩学生に「導引の法によって疾病を取り除き、損傷の有る者や足を骨折した者を治す」ことを教え、組織的に按摩の教学活動を開始していました。

この時期、自己按摩がそれなりの効果があるとして流行していました。

晋代の「抱朴子」内篇(遐覧では 「按摩導引経十巻」(すでに散失)に言及し、 隋代の『諸病源候論』 の各巻末には、 導引按摩法が付いています。自己按摩の広範囲に渡る展開は、按摩療法が予防を重視し、患者と疾病の戦いを発揮する主観能動性に注意していることを説明しています。この時期は人体の表面上に按摩手法を施行するとき、漢方薬の膏薬を塗って患者の皮膚破損を防止するという、薬物と手法の組み合わせによる膏摩法が発展していました。膏の種類は非常に多く、丹参膏、烏頭膏、野葛膏、陳元膏、木防己膏などがあり、これらは病状に従って選ばれ、応用されました。

膏摩は更に小児の疾病も予防・治療でき、「千金要方」には「子供が病でない時でも、早起きして常にひよめき(泉門)の上や手掌や足底の中心部を膏摩すれば、よく寒邪風邪を取り除くことができる」と書かれています。

 

この時期、治療範囲は次第に広がり「唐六典」には、按摩は八疾すなわち、「風、寒、暑、湿、飢、飽、労、逸」 を取り除くことが出来ると記されています。 また「外台秘要」には「傷寒の病を初めて得て一日、頭痛や背中のコリが生じたら、摩によってこれを治すと良い」とあり「諸病源候論」では「目をこすると、その人の目を明る<する」と記されています。

『肘後備急方』 救卒中悪死方では「卒中を救うには…その患者の人中に爪を使い、眠りを覚まさせる」と記されています。

 

この時期の中国は、経済、文化、交通等が大きく発展し、対外文化交流が活発であったため、医学も朝鮮、日本、インド等の国々へ伝えられました。宋、金、元代には推拿の使用範囲は、さらに広がり、宋代の医師龐安時には「患者の治療では十人中、八・九人が治る…民家の女性が妊娠し、 出産予定日を七日過ぎても生まれず、様々な方法を試みたが効果はなかった…その人に湯で腰と  腹を温めさせ、自分の手で上下に推摩させたところ、その妊婦は胃腸に微痛を感じ、うめきなが ら男子を出産した」と記述され、按摩法を使って出産を催促させたと言われています。

 

この時期は推拿手法の分析も重視され「聖済総録」巻四・治法には、次のように記載されています。

「按と摩は、時を同じくして応用する。これを按摩と言う。按は摩ではなく、摩は按ではない。按は手で押さえ、摩には薬を利用することもある。按と摩はそれぞれ適した場所で利用する。…世の中の按摩について論ずる者は、その解釈を知らない場合でも、これによって治療を進め、導引と合わせてこれを解釈する。解釈を知らずに、治療を進める者は元々粗末である。また導引と合わせる者になると、ますますそれに対する注意が足りない。按摩法は大抵、開達抑遏を義としている。開達とは塞ぎ覆われているものが、これによって発散されることであり、抑遏とは浮き上がっているものが、もとの所へ戻ると言うことである。」

この具体的な手法分析は、推拿治療作用に対する人々の認識を一層高めました。

これ以前の医学書で、按摩作用について述べる場合の多くは、温通塞閉(温めて塞閉したものを通じる)によって解釈したが「儒門事親」が現れて初めて、導引按摩に解表発汗(発汗させて表面の病邪を取り除く)作用のあることが明らかとなったのです。

 

明代は封建社会没落の時期であり、資本主義的生産方式が既に始まっていました。新しい生産方式の発生は、医学と科学の発展を促しました。当時すでに按摩の専門書だけでなく、子供の疾病治療にも按摩による豊富な経験が積まれ、小児推拿の独特の体系が形成されました。例えば小児推拿の経穴には点、線(前腕の「三関」「六腑」など)、面(手指指面の「脾」「肝」「心」「肺」「腎」など)があります。また、小児推拿の臨床実戦を通して、小児推拿に関する専門書が多く出版され「小児按摩経」「小児推拿方脈活嬰秘旨全書」「小児推拿秘訣」等で、その中でも「小児按摩経」は中国に現存する最古の推拿関係書でもあります。

 

按摩はまた推拿とも称されるので、この時から小児推拿の名称が使われ始めたことになります。明代、民間の推拿医師は比較的活動的でした。「香案讀」には「疾病のある者には、手で摸でる事によって治療するので、人はこれを摸生と呼ぶ」と記載されています。この摸生とは、治療効果の素晴らしい、民間の推拿医のことです。

清代の太医院(皇室の治療所) には推拿科が設置されていなかったが、推拿の治療効果は卓越しており、人々から受け入れられていたので、民間では比較的大きな発展が見られました。また、推拿の専門書が続々と出版され、著名な物に熊応雄の「小児推拿広意」略如龍の「幼科推拿秘書」銭懐郁の「小児推拿直録」張振黎の「麓生按摩要術」夏雲集の「保赤推拿法」があります。 この他に「推拿訣知」「推拿指南」「推拿捷径」「推拿訣微」「推拿図解」「小児推拿術」などがあり、推拿の専門書以外でも「理淪駢文」「幼科鉄鏡」などでは、推拿法について触れられています。

 

清代、推拿手法による傷や疾病の治療が比較的系統的にまとめられました。例えば「医宗金鑑」 では、模、接、端、提、按、摩、推、拿を傷科八法としています。以上の著作からわかることは、推拿の臨床経験が日毎に蓄積されただけでなく、理論上でも非常に大きな向上が見られたということです。また、推拿の治療法則と症状の適応に対して系統的、全面的な展開を行っています。

 

中国人民解放前の1929年、国民党政府は第1回「中央衛生委員会議」を開き「古い医学を廃止して、 医時衛生の障害を排除する」 方式を発表、さらに1936年には 「中国医学には、科学的根拠がない」として、すべての業務を許しませんでした。中国の伝統医学は厳しい仕打ちをうけ、推拿は滅亡の危機に迫られました。当時、医療推拿に従事した者はほとんどいなくなりました。

 

しかし、推拿は正しい医療科学であり、強大な力を秘めていたので、民間ではそれなりに発展していきました。例えば、ー指禅推拿の基礎に立って、㨰法推拿流派が発展、形成され、また、鍛練と武術的基礎の上に立って、平推法推拿或いは内功推拿流派がしだいに発展、 形成されていきました。解放後は、中国共産党の漢方医政策推進の下で、推拿学科が重視されました。1956 年に上海で推拿訓練班を開設、1958年には推拿専科外来部が創られ、同年、推拿専科学校も開設されました。当時、全国の著名な推拿専門家が、教師として迎えられ、推拿専門の人材が養成されました。

 

1950年代、推拿の治療範囲には、内、外、産婦人、小児、耳鼻咽喉の各科が含まれ、推拿の生理作用と治療原理に関する初歩的研究も進み、推拿の歴史文献に対する整理研究も開始されました。1959年、ある専門家が生物力学の方法による推拿原理の研究構想を発表、初歩的な研究を始めました。 この時期には専門書が10種類余り出版され、論文も70篇余り発表されていました。

 

1960年代の前半には、既に初歩的な推拿専門チームが設けられ、継承・整理活動が行なわれました。専門書も10冊余り、論文も270篇余り発表され、推拿麻酔もこの時期、初歩的ながら成功を見ていました。

 

1960年代後半から1970年代前半にかけては大きな打撃を受けました。上海では当時全国唯一の推拿学校が閉鎖され、推拿外来部も取り消され、専門チームも厳しい状態におかれました。推拿治療の範囲は縮小され、治療も3種(捻挫、腰椎間板ヘルニア、漏肩風(肩関節周囲炎)に限定され、学術活動は完全に停止されてしまいました。しかし、人々 は推拿を求めていたため1974年には、上海中医学院に全国で初めて、針、 推拿、傷科の専業が確立されました。

 

1976年10月以降は、国の安定と発展に伴ない推拿の学術活動が次第に回復、1979年には上海中医学院に、針灸・推拿学部が設けられ推拿専門の人材を養成することとなりました。

 

1979年7月、上海で初めて、全国的規模の推拿学術経験交流会が開かれ、全国27の省市から、108人の代表者が参加、論文98篇が発表され学術交流をしました。これ以後、推拿事業は全国で次第に発展していきました。推拿には独特の医療作用があるため、 現在、国際医学界の注目を集め、多くの国ではこれに対する研究活動を展開しています。古い推拿療法には、人類の医療保健事業のため新しい貢献をしています。

 

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