中医学 What’s TCM(Traditional Chinese Medicine)
中医学とは、独自の生理観や病理観、および診断・治療の方法を持つ体系化された中国伝統の医学である。伝統中医学の成立時期には諸説あるが、古代中国の殷王朝・周王朝(紀元前1500年~700年頃)時代、黄帝とその家臣による問答を記述したと云われる世界最古の医学書『黄帝内経』(紀元前1200年頃)が記された頃と考えられている。
黄帝内経
『黄帝内経』は中国に現存する最古の医学文献であり、春秋戦国時代に医療成果と治療経験をまとめあげ確立されたものである。
『黄帝内経』は<素問・霊枢>という二部で構成されており、現存する医学文献のうちで最も古い中医書籍であり、
人体の生理、病理及び疾病の診断、治療、予防などについて全体的に記載しており、中医学の理論体系の基礎を定めた。
『黄帝内経』には多くの科学的な観点が見られ、
と考えられている。
従って、
疾病の発生は季節・季候と密接な関連があり、地域環境とも関係があると考えられた。
また、疾病の原因は、外来の発病因子である邪気の侵入を認めながら、人体側の内因が根本原因になっているとし、
「邪の湊(あつま)る所、その気は必ず虚になっている 」、
「風雨寒熱は、虚がなければ、邪は勝手に人に侵入しない」と説いている。
さらに疾病の予防と治療については、
「未病を治す」(病みかけをを治す)
「病を治すには必ず本を求む」(病の原因を知る)ということを強調している。
『黄帝内経』の中の多くの内容は当時の世界レベルを越えたものであった。
形態学の面では人体の骨格、血脈の長さ、内臓器官の大きさや容量などに関する記載は、実際の状態にほぼ合致しており、例えば、食道と腸の比率は1:35であると記載され、現代解剖の結果は1:37であり、両者は非常に近い。
血液の循環の面で<素問・疫論>には「心は身の血脈を主る」とある。即ち血液は脈管内を流れているという認識がありました。
『黄帝内経』の陰陽五行学論は「天人合ー論」の影響を受けて
天に日月があり、
人に両目があり、
天に四時があり、
人に四肢があり、
天に冬夏があり、
人に寒熱があり、
天に列星があり、
人に牙歯がある
と記している。
『黄帝内経』の後に経験をまとめた文献として、
「難経」、「神農本草経」、「傷寒雑病論」があり、
『黄帝内経』と合わせて中医学の四部の経典著作と称されている。
「難経」
漢代以前、秦越人が著したものとされ、生理、病理、診断、治療など各方面から『黄帝内経』の不足を補充し、特に「寸口脈診法」「命門」「奇経八脈」及び「三焦」に関する記述は後の医家が、こぞって踏襲するようになり『黄帝内経』と同じように後世の臨床実践を指導する理論的基礎となった。
「本草経」
原名は「神農本草経」。一般には東漢(後漢)末年に成書となったと考えられており、神農氏の著作として名を冠せられている。
この書は漢代以前の薬物に関する知識を総括しており、収載された薬物は365種であり、最も多い植物薬が252種、動物薬が67種、鉱物薬が46種。
「本草経」は中国で現存する医学文献のうちで最古の薬物学書であると言われている。
「傷寒雑病論」
漢の時代に中医学は大きな進歩と発展が得られ、東漢の末年に著名な医学家、張仲景は<内経><難経>などの理論をベース に、前人の医学的成果を集め、さらに自分の臨床経験と結びつけ、疾病を傷寒と雑病に大きく分類して論述し「傷寒雑病論」を著した。
これが後世の「傷寒論」と「金匱要略」です。「傷寒論」は<素問・熱論>の上に六経弁証論治の綱領を確立し、六経(太陽、陽明、少陽、太陰、少陰、厥陰)の証と分経弁証の治療の原則を打ち出しました。
「金匱要略」には、臓腑の病因理論によって証を分け、40種類の疾病、262方剤の処方を収録し「医方の祖」と呼ばれています。
要するに、「傷寒論」、「金匱要略」は六経弁証、臓腑弁証で外感疾患と内傷雑病を論治し、弁証論治の理論体系を確定し、臨床医学の発展の基礎を築いたものである。
各家学説
四部の中医の経典著作の上に、歴代の医学家は、様々な角度から中医学理論を発展させた。
隋代の巣元方が編集した「諸病源候論」は、中医学の病因、病理、症候学を論ずる専門書である。宋の時代の陳無揮の「三因極ー病証論」では疾病の原因として、外因、内因、不内外因という「三因学説」を唱えた。
宋の時代の銭乙の「小児薬証直訣」では、初めて臓腑の証と治法を立てる治療を提起した。
金、元の時代に至っては、続々と特色を持つ医学流派が起こり、その代表は劉完素、張従正、李杲、朱丹渓であり、後生の人に「金、元四大家」と呼ばれた。
劉完素は火熱論を立て「元気はすべて火より化す」、「五志の過極は皆火を生ず」
という説を主張し、用薬は寒冷を主としたことから、後世は寒涼派と称し、その考え方は、温病学説の形成に一定の影響を及ぼした。
張従正は病が邪より生じ「邪が去れば、即ち正が安ず」と提唱し、治病は汗、吐、下の三つの方法による駆邪を主とし、後世は攻下派と称している。
李杲は「脾胃を内傷すると、百病それより生ず」と言って、治病は脾胃を補うのを主とし、後世は「補土脈」と称している。朱丹渓は「人身の陽は常に有余し、陰は常に不足す」と考え、治病は滋陰降火(陰を潤し、火をしずめる)を主とし、後世は養陰派と称している 。
これらの学派は、病に当たり、いずれも独自の見地と経験を持っており、異なった見解を述べて論争を行い、医薬学の内容を一層豊富にし、医学理論の発展を促進した。